ふぃーたっくす

物理屋から税務屋へ.phy→tax

言葉の旅、また始まる

前回のブログで積読していた本のうちのひとつ『法を学ぶ人のための文章作法』を読み終えた。

 

 

文章の書き方なる本はこれまでも何冊か読んでいるけれど、法律に関するものは初めて。

どんなのを読んだかなと思ってAmazonで調べてみるも、最近の本や、いわゆるビジネス書で流行った本ばかりで、自分が読んだ記憶のある本が全然出てこない。

 

 

高3のときに「理系に行くなら」と読んだ『理科系の作文技術』。このくらいしか記憶にない。読んだ本は見たら読んだことだけ思い出すけど、内容は忘れるタイプ。おすすめの本は?という世間話に全く対応できない。

 

最近でも、ビジネス書でも、「文章の書き方」は廃れないテーマで、みんな何かしら困っていることがあるんだろうな、と思う。自分も文章を書く機会が減って、推敲も構成もなし、めちゃくちゃな文章だとしても、キーボードだとしても、何か文を作る機会を、と考えてこのブログを始めたところがある。

 

この本に戻ると、当たり前のことなんだけれど、文章技術の章(Part2)の頭に「紙とペンで文章を書く鍛錬をして、基礎体力をつける」とある。それもド頭(厳密には2章の頭だからド頭ではないんだけど)に、である。私のブログも、やらないよりましなんだろうが、文章の体力って意味ではこれじゃあ不足しているみたい。体力を落とさないように惰性でやっていて、やった気になっているけど、実は少しずつ衰えているパターン。キーボードで打っているうちは、漢字が書けなくなる一方だしね。子どもがもう少し大きくなったら、一緒に漢字の勉強をするつもり。

 

私はこれから税理士を目指そうかと思っていて、そのためには税法の条文を読むことも多々あるだろう、そうだとすると法律のものの見方とか、考え方とかを知りたいなということでこの本を読んでみた。見方とか、考え方から入るのは私の癖かもしれない。感覚的に知りたい、理解したい、そんな欲求があるし、感覚的に腑に落ちないとわかった感がない(ただし人に教える上では、感覚的な理解だと説明しにくいことがある。自分の中ではしっくり来ていて当たり前になっていて、説明しろといわれてもうまくできない。物理は結構そんな感じだった)。英語も結局、ネイティブの感覚をある程度身につけないと腑に落ちるところまでいけないのか、博士課程まで進んでおいてさっぱりなまま。

 

法律っていかつくて、読みにくくて、わかりにくくて、というイメージがある。それをいうなら数式だらけの大学数学や大学物理の方がいかついかもしれないけど…

 

法律は言葉で書かれているからこそ、日常生活と混同しないために、わかりにくいくらいがちょうどいい、という風に考える先生もいるようだ。ただ、この本の著者らはたとえ法律に関することであったとしてもわかりやすく書くように、という立場で執筆されている。わかりやすく書くんだけれど、日常の文章や、詩的な文章とも違う論理性が求められる。論理的な文章の書き方、だけだと、他にも山ほどそんな本は出版されていて、やっぱりもう少し「法律らしさ」は欲しかったような気がする。例文は法律関係が多いけれども。

 

 

参考になった部分がそんなになかった(失礼)けれども、参考になった部分を紹介する。

 

語の意味範囲を自覚する(p.87)

語を選ぶ際には、書き手の意図した意味の範囲と、読み手の想するであろう意味の範囲とができる限り近くなるように留意することが必要である。(p.88)

 

私の感覚では、法律の文章は、自然科学の文章よりも日常生活に近いので、言葉の選び方により一層気をつけないといけないと考えている。だからわかりにくいくらいがちょうどいい、というのは少し同意する。でも法律は、数学と違ってわかる人だけがわかればいい、というものではないと思う。普段から法律に浸かっている必要はないかもしれないけど、いざというときわからないと困るものなのかなと(そういう意味では、数学もある程度はいざというときわからないと困るものか…)。そうだとすると、わかりやすさは必要で、日常の言葉に近づける意味もそれなりにあって、だけど法の文章として、誤解を生んだりわかりづらい表現を避けたりする必要がある。

話が脱線すると、一般向けに自然科学の研究成果を紹介するような機会があるときには、やはり日常の言葉に近づけたり、あるいは身近な例をあげたり、極力理解しやすくなるように努める必要がある。ただそうすると、その分核心からは遠ざかってしまうこともしばしばある。難しい言い回し・概念(数式とか)だとしても、そのまま飲み込む、そのまま理解することも、必要なことかもしれない。翻訳を通さないで外国語を理解するような感じである。

 

難しい言い回しでなく、その学問特有の謎の言い回しも、私はありだと思っているクチだ。法律の世界では

「とすると」、「そうであっても」、「問題となるも」、「明文なく」(p.177)

なる言葉がよく使われるらしい(そして本書ではこれらの言葉を容赦なく叩いている(笑))。

 

物理、というか、数学の世界でも似たような現象はあって、例えば

「簡単のため」

なんかがそれにあたるだろうか。私はどちらかというと著者らと似たような意見で「簡単のため」って日本語としてどうなんだ、と思っていたので、自分の答案で使うことはなく、「簡単にするため」とか「単純にするため」とか書いていたような気がする。かといって使われているのを見てもなんとも思わないし、板書だったらめんどくさいのでそのまま書く。

なんとも思わないは嘘か。自分で使うのは嫌だけど、その学問らしくていいなという気持ち。自分で使いたくないのは、全然その学問をわかっていないのに、それっぽい文章を書くのが恥ずかしかったから(周りの学生で使っていても特に気にしないけど)。

今後法律の世界で、不思議な言い回しにたくさん出会えるのを楽しみにしている。

 

 

パワー・ライティング(p.105)

 

本を読んでいる順に並んだら半分よりは読んでいる側に来ると思っているが、この概念は初めて知った。どうやら日本語圏内ではあまりメジャーではないようで、パワーライティングと調べると1ページ目にこの本の書評ブログが出てくるくらいのレベル。他に上位なのも個人ブログばかり。でもとてもわかりやすい。本に出てくる例を挙げると

 

パワー1 法律

 パワー2 刑法

 パワー2 民法

 

てな具合である。

もっと有名なパラグラフライティングとか、起承転結とか、文脈的な流れを考える系のものよりも、この手法はわかりやすくて誰でもできそう。修士論文で目次から先に考えたことを思い出す。そういう意味ではパワーライティングと名乗っていなくても、自然にやっている手法なのかもしれない。

 

 

条文はリマインドをしない(p.111)

私がこの本に期待していたのはこういうことだよ!という内容。こういう内容が知りたかったら、「法を学ぶ人のための文章作法」ではなくて「法律の文章」とか、そういう名前の本を選ぶべきだったのだろう。文章作法になると、一般人が条文を作るわけではないから「条文はリマインドしない。だからリマインドしないように」なんて作法を教えるわけがないし。むしろ「大事なことは最初と最後に繰り返せ(結論→いろいろ→再度結論)」と言われるだろうし。

 

法律表現の特色というよりも、条文起草の実務というべきであろうが、リマインドのルールというものは考えられない。(略)条文起草においては、論理的に意味が重複する規範提示はしない、という約束がある。(p.111)

 

なんでこういうことが知りたかったのかといえば「そういうルールだ、こういう心持で作っているのだ」と知っておけば、「なんで法律はこんな回りくどい(日常の文章と違うような)言い方をするんだ」と文句をいう時間を減らせそうだったから。世の中の多くのことと同じように、事情がわかれば優しくなれるものである。

 

条文の起草においては、「東京大学の学生であって法科大学院に在籍するもの」などとする。(略)限定された後の最後のところは、「もの」とする。「者」とはしない慣行である。よく変換漏れですね、という指摘を受けるが、これで正しい。「者」であることはすでに「学生」と述べたところで尽くされており、物でなく人を示す概念であることは一度伝えることでよい。(pp.111-112)

 

もはやここまでくると「へー」の領域で、たのしい。

話が脱線するが法律だとなのか、税の領域だとなのか、「者」は「しゃ」と読まれていることが多い。これはもはや文章ではわからない領域のこと。言葉がずっと好きだった私にとって、新しい分野に飛び込んで、新しい言葉の使われ方を見たり聞いたりするのは、本当にたのしいものである。